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文法力をつけたいが、無味乾燥な文法書など読みたくない。
そんな読者のために、人気小説の翻訳書に見る誤訳・悪訳をとりあげ、
文法面から解説してゆく。題材は最近映画化された『チョコレート工場』の原作者で、日本がロケ地になった映画『007は二度死ぬ』の脚本家でもあるロアル
ド・ダール(Roald
Dahl)の短編から任意に選ぶ。いずれも原文で10ページ程の短いものが中心だから、読者も自分で訳してみて、この解説を参考に市販訳との優劣を競って
みてはいかがだろうか。
冒頭に誤りの種別と誤訳度を示したうえ、原文と邦訳、誤訳箇所を掲げ
ます。どう間違っているのか見当をつけてから、解説を読んでください。パズルを解く気分で、楽しみながら英文法を学びましょう。
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誤訳度: |
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致命的誤訳(原文を台無しにする) |
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欠陥的誤訳(原文の理解を損なう) |
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愛嬌的誤訳(誤差で許される範囲) |
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THE LAST ACT「やりのこした仕事」
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ストーリー ア
ナは中年まっ盛りで夫を事故で失った。打ちひしがれる毎日。ひょんなことから、児童福祉の仕事に携わり、心の落ち着きを取り戻すようになった。或る日出張
でダラスに赴いたとき、高校時代のステディ、コンラッドを思い出し電話をかける。当地で医者になっていたコンラッドは大歓迎してくれ、いつの間にかふたり
はホテルの部屋で愛を交わしていた。すっかり有頂天になっていたアナの耳元でコンラッドがアナの更年期症状についてじくじく説明しだすのを聞いて、思わず
快感が嫌悪に変わり絶叫する。 |
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(原文p388) * 動詞
The
bell itself was on the wall directly above the sink, and it never
failed to make her jump if it rang when she happened to be near. For
this reason, neither her husband nor any of the children ever used it.
It seemed to ring extra loud this time, and Anna jumped extra high.
(訳文p131)
こ
の呼鈴は流し台の真上にとりつけてあるものだから、それが鳴ったとき近くにいると、何度も聞き慣れているはずなのに、驚いてとびあがってしまう。そのた
め、夫や子供たちは決して呼鈴を鳴らさないことにしている。このときはとくに大きな音がしたような気がして、アナはいつもより高くとびあがってしまった。
(コメント)
jump とくるとつい「飛び上がる」としたくなるが、訳文を読むと大げさに思える場合がある。それは jump が行為でなく心理をあらわしている時である。ここもそう。
例:“Hello.” “Jim? I didn’t know you were here. You made me jump.”
「こんにちは」「ジムなの?ここにいたなんて知らなかった。びっくりしたわよ」
修正訳: びっくりする
いつもよりさらにどきっとしてしまった
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(原文p392) ** 意志未来
Veins
were no good. Veins made plenty of mess, but they never quite managed
to do the trick. Then again, the razor-blade was not an easy thing to
hold, not if one had to make a firm incision, pressing it right home
all the way, deep deep down. But she wouldn’t fail. The ones who failed
were the ones actually wanted to fail. She wanted to succeed.
(訳文p138)
静
脈では死ねない。血は派手に出るが、結局は命をとりとめてしまう。それに、剃刀でやる場合は、よほど深い覚悟がなければ、正しい場所に当てて充分深く切る
だけの勇気が湧いてこない。だが、彼女はおそらく失敗しないだろう。失敗した人たちは、実際は失敗することを望んでいた人たちなのだ。彼女は失敗を望んで
いない。
(コメント)
こ
こ中間話法になっている。叙述のようにうまく訳しているので訳文だけみればおかしくないが、可能性をいっているのでない。彼女の意志をいっているのだ。
she とwanted が斜体になっているのも、その指標となる。だからこの後の、用意周到に死の準備をするくだりに繋がる。
修正訳: だが、自分は失敗するつもりはない。 |
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(原文p393) **分詞構文
Nine of the staff were down with flu. Only two were left, excluding herself.
(p140)
そこで働いている人たちのうち、九人までが流感でダウンしてしまったのだ。彼女自身も含めて、あとに残ったのはたった二人だけだった。
(コメント)
何を勘違いしたのか、includingでなくexcluding なのだが。
修正訳: 彼女自身の他には、 |
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(原文p393) * 名詞
She kept running from one cubicle to the next, taking messages that she did not understand.
(訳文p140)
わけのわからない伝言を伝えに、小部屋から小部屋へと走りまわった。
(コメント)
部屋がいくつもあるわけではない。外資系のオフィスによくあるデスク毎の簡易間仕切りのこと。まあこの翻訳の時代には分からなかったかもしれないが。
修正訳: デスクからデスクへと |
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(原文p411) *** イディオム
And
now Anna felt her passion being drawn out of her as if a long live
nerve were being drawn slowly out of her body, a long live thread of
electric fire, and she cried out to Conrad to go on and on and on, and
as she did so, in the middle of it all, somewhere above her, she heard
another voice, and this other voice grew louder and liuder, more and
more insistent, demanding to be heard:
(原文p178)
や
がてアナは、肉体の一部から、生きた長い神経、一すじの長い電光の輝きがゆっくり引き抜かれるように、情熱が体外へ逃げだして行くのを感じて、夢中でコン
ラッドをせきたてていた。彼女の叫び声にまじって、どこか上のほうから、もう一つの声が聞こえてきた。その声はしだいに大きくなって、執拗に彼女の耳にと
まることを要求しつづけた。
(コメント)
じ
つはこの前に、アナがコンラッドの愛撫に悶える叙述がある*。そしてこの後に、コンラッドが唐突に避妊具の話をするので、アナが興ざめする描写となる。
よって、ここは「情熱が逃げだす」(それでは情熱が失われると取れる)のでなく、「情熱が引き出される」(羞恥心などかき捨ててしまう状態)ととるべきだろ
う。何しろアナはコンラッドに叫ぶのだ go on and on and on (どんどんやって頂戴⇒ポルノ風に訳せば「いいわ、いいわ、いいわ」といったところか)。
修正訳: 情熱がむき出しになるのを感じ、
*そのくだりで、訳者が誤解もしくは未認識していると思われる個所がある。
「それからしばらくの間に、彼が彼女の体にしたことは、恐ろしくも甘美な感覚をともなった。それが単なる準備運動、病院の用語で言えば、手術前の準備にすぎないことは彼女も知っていたが、それにしても、かつて話に聞いたり経験したりしたどんなこととも少しも似ていなかった。しかもそれはひどくあっけなかった。…」
原文:The things he did to her during the next few moments were terrible and exquisite. He was, she knew, merely getting her ready, preparing her, or as they say in the hospital, prepping her for the operation itself, but oh God, she had never known or experienced anything even remotely like this. And it was all exceedingly quick, for …
ここ、間違いとはいえまいが、「甘美な感覚」らしく訳してくれないと、次へ続かない。「どんなこととも似ていない」では、味わった「甘美」の素晴らしさが伝わらない(こんな体験は今までちっとも味わったことがない、ということ)。とくにquick を「あっけない」とするのでは、行為が早く終わってしまったみたいだ(素早く相手を興奮させるのに巧み、ということ)。詳しく書くと品がなくなるので止めるが、訳者の永井はこの方面にうとい、真面目な人なのだろう。
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