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文法力をつけたいが、無味乾燥な文法書など読みたくない。
そんな読者のために、人気小説の翻訳書に見る誤訳・悪訳をとりあげ、文法面から解説してゆく。題材は最近映画化された『チョコレート工場』の原作者で、日本がロケ地になった映画『007は二度死ぬ』の脚本家でもあるロアルド・ダール(Roald Dahl)の短編から任意に選ぶ。いずれも原文で10ページに満たない短いものだから、読者も自分で訳してみて、この解説を参考に、市販訳との優劣を競ってみてはいかがだろうか。
冒頭に誤りの種別と誤訳度(または悪訳度)を示したうえ、原文と邦訳、誤訳箇所を掲げます。どう間違っているのか見当をつけてから、解説を読んでください。パズルを解く気分で、楽しみながら英文法を学びましょう。
今回取り上げるのは、『あなたに似た人』(早川文庫、田村隆一・訳)のなかの『おとなしい兇器』(LAMB TO THE SLAUGHTER)
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誤訳度(悪訳度): |
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致命的誤訳(悪訳)(原文を台無しにする) |
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欠陥的誤訳(悪訳)(原文の理解を損なう) |
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愛嬌的誤訳(悪訳)(誤差で許される範囲) |
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おとなしい兇器
[ストーリー] メアリ・マローニは警察官の妻。日勤から帰宅した夫に突然、離婚を告げられる。呆然としたまま、食事の支度にとりかかろうとするが、窓際から外を眺める夫を見て、思わず持っていた羊肉の塊で撲殺してしまう。アリバイ作りに食料品店で買い物し、羊肉はオーブンに入れ、刑事たちの到着を待つ。自分に優しくしてくれる刑事たちに、夫が食べるはずだった羊肉を供するが、誰一人、これが当の兇器だったと疑うものはいない…。
*今回は、間違い少ないので、誤訳と悪訳を一緒に取り上げます。 |
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●悪訳:* ●誤訳(現在分詞):** ●悪訳:* ●誤訳(副詞):*** |
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Mary Maloney was waiting for her husband to come home from work.
Now and again she would glance up at the clock, but without anxiety, merely to please herself with the thought that each minute gone by made it nearer the time when he would come. There was a slow smiling air about her, and about everything she did. The drop of the head as she bent over her sewing was curiously tranquil. Her skin ---for this was her sixth month with child---had acquired a wonderful translucent quality, the mouth was soft, and the eyes, with their new placid look, seemed larger, darker than before.
ときおり、顔をあげて、彼女はよく時計に目をやったものだが、それは気がかりや心配からじゃなくて、刻一刻と時がすすむにつれて、それだけ夫の帰ってくる時間に近づくのだ、そういった愉しい気持ちからだった。だから、彼女がなにをするのにも、そのまわりには、なにかしら心のあたたまる雰囲気がただよっている。時計を見てから、また縫物をつづけるために、うつむいた彼女の頭のあたりにも、いうにいわれぬ平安さがみちていた。彼女のはだは、これは妊娠六ヶ月のせいなのだが、まるですき透るように白くなっていて口もとはやさしく、いまおだやかな光をみせたばかりの彼女の眼は、まえよりもいっそうおおきく見ひらかれ、深い色をたたえているかのようだ。
[解説]
「からじゃなくて」…悪訳
叙述の部分なのだから、口語は避けたほうがよい。口語になっているのは、この箇所だけなので、バランス上からもおかしい。
「心のあたたまる雰囲気がただよっている」…誤訳
「心あたたまる」は叙述者の感懐を示す。自動詞の現在分詞形の形容詞 smiling は、次の名詞 air (可算名詞化して「雰囲気」の意味)の様態を記す。「微笑んでいる(雰囲気)」→「晴れ晴れとした(雰囲気)」。slow はこの場合「のんびり、ゆったりしていること」。
修正訳 |
「ほのぼのとした明るい雰囲気がただよっている」 |
「はだ」…悪訳
漢字のほうが読みやすい。
「いまおだやかな光をみせたばかりの彼女の眼は」…誤訳
この new は「妊娠することで新たに獲得した」の意味。このあたり直訳すると「口元はすべすべしており、また眼は、それが新たに獲得した落ち着いた様相を持っており、以前より大きく黒いように見えた」
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●悪訳:** |
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All right then, they would have lamb for supper. She carried it upstairs, holding the thin bone-end of it with both her hands, and as she went through the living-room, she saw him standing over by the window with his back to her, and she stopped.
これでいい、夕食は羊肉にしましょう。骨のはじを両手でさげて一階へ上る、居間を通ろうとすると、夫が背をむけて窓ぎわに立っていた。彼女は立ち止まる。
[解説]
「骨のはじ」…悪訳 **
一つの羊肉の塊のうち、肉がたっぷりついた大腿部の部分と、その先の骨が突き出ている脚の部分ののうち、後者をいっているが、この訳では舌足らず。
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●誤訳(名詞):** |
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The violence of the crash, the noise, the small table overturning, helped bring her out of the shock.
はげしい暴力と、そのもの音、ちいさなテーブルがひっくりかえったありさまに、彼女はやっとわれにかえった。
[解説]
「はげしい暴力と、そのもの音、ちいさなテーブルがひっくりかえったありさまに」…誤訳
The violence of A, B, C, 全体が主部を構成し、A、B、C は並列。violence は「すさまじさ」。crash は「物が倒壊するときに起す轟き」。noise はこの場合「crash に伴って起こる雑音」。後頭部を殴られた男が、ドスンと倒れるときの音、それに伴う雑音、巻き添えでちいさなテーブルがひっくり返る音、それらが合い俟ってすさまじい物音となり、それが彼女を正気にさせた、のである。
修正訳 |
「その倒れ方があまりにすさまじく、騒音を撒き散らし、ちいさなテーブルも巻き添えにひっくり返されたので」 |
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●誤訳(イディオム):* |
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And now, she told herself as she hurried back, all she was doing now, she was returning home to her husband and he was waiting for his supper;
さて---家へ急ぎながら、彼女は心のなかでつぶやく。このわたしは、食事を待っている夫のもとへ帰っていくところなんだわ。
[解説]
「心のなかでつぶやく」…誤訳
tell oneself は「自分にいいきかせる」。「心のなかで言ってみる」は say to oneself 。つぶやく=ひとりごつ=ひとりごとをいう、は think aloud 。talk to oneself 。
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