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IV 大学研究の現場
せめて大学英文科ぐらいは、まともな英文読解教育をしていてほしいが...
まず次の訳文を読んでいただこう。
わたくしの歴史観はそれ自体がすでに一片のささやかな①歴史であります。しかも②この一片の①歴史はもっぱら他の人々の①歴史であって、私一個人の①歴史ではありません。③という のは、だいたい一人の学者の畢竟の事業といえども、彼のくみ出したわずかに一桶の水量をそ れに何百何千何万倍する同種の水量によって養われたとうとうたる知識の大河の流れに寄与す るだけのはなしだからであります。いやしくもわたくし一個の歴史観が何らかの光明を投ずる ことができる④ためには、否、少なくとも何らかの可知的な意味をもち得る④ためにも、まず この歴史観がいかにして⑤発生し、いかにして⑤⑥生長し、またいかなる社会的、個人的背景 を⑤もつものであるかを示すごときかたちにおいて⑦それは提出されなくてはなりません。 (下線部は論者)
世界的歴史家、アーノルド・トインビーの『文明としての歴史』(社会思潮社)の深瀬基寛(故人・京都大学名誉教授)による訳文。 なんとも持って回った読みづらい文章だが、こういうものを「学者らしく真面目な、原文に忠実な翻訳」という人がいるかもしれない。だがそうではない。わずかこれだけの文中に誤訳が2箇所(①、②)、冗漫で意味がとりにくいところが1箇所(③)、日本語のコロケーションが悪く読みづらいところが2箇所(④、⑤)、漢字の誤用が1箇所(⑥)、日本語では使わない代名詞の使い方をしているのが1箇所(①)ある。
(原文)
My view of history is itself a tiny piece of history; and this mainly other people’s history and not my own; for a scholar’s life-work is to add his bucketful of water to the great and growing river of knowledge fed by countless bucketfuls of the kind. If my individual view of history is to be made at all illuminating, or indeed intelligible, it must be presented in its origin, growth, and social and personal setting.
[誤訳] この history は「歴史学」の意味
[誤訳] this は a piece of history ではなく、history (歴史学なるもの)を指す
[冗漫で意味がとりにくい] まず修飾過剰。次に「...といえども」は否定につづくのかと思えば、「寄与する」という肯定的なことばにつながり、その「寄与」が「...だけのはなし」とおとしめられていて、結局ほめているのか、けなしているのかわからず、いらいらする。 「寄与するだけのはなしだからであります」では、(寄与するが肯定的な響きをもつのに対し、だけのはなしが否定的に響きかつあいまいで)「だからどうなんだ」と問いたくなる。
[コロケーションが悪い] 「否、少なくとも」と「…ためにも」の相性が悪い。 考えられる組み合わせを挙げ、検討してみる。
(1) |
「…できるためには、また何らかの可知的な意味をもち得るためにも」 問題ない並列だが、原文と意味が異なる。 |
(2) |
「…できるためには、否、何らかの可知的な意味をもち得るためには」 換言し、より正確に述べる。 |
(3) |
「…できるためには、否、少なくとも何らかの可知的な意味をもち得るためには」 換言し、卑近な例を強調する。 |
(4) |
「…できるためには、否、何らかの可知的な意味をもち得るためにも」 換言し、…部分の大上段ぶりを緩和する。 |
(5) |
「…できるためには、否、少なくとも何らかの可知的な意味をもち得るためにも」 換言するが、卑近な例の強調と...部分の大上段ぶりの緩和が噛み合わない |
人により語感がズレることもあろうが、おおむね (1)は不可、(2)は可、(3)は可、(4)は場合により可、(5)は不可、といえるのではなかろうか。
[コロケーションが悪い] 「発生し」「生長し」はよいが、三つ目の「持つものであるかを」は並列が不自然
[漢字の誤用] 「生長」では植物のようだ。「成長」としたい。
[代名詞の不適切] 「それは」とは「歴史観」のことと原文とつけあわせれば分かるが、日本語での慣用に反する。このように一つの文中に名詞とそれを受ける代名詞がある場合、先行し副詞節的にはたらく中の名詞を受けた代名詞を主語にはできない(二つは違うものと思われてしまう)。
この文章には、抜粋ではあるが東大教授であった故・朱牟田夏雄の訳(『英文をいかに読むか』文建書房。昭和34年1月4日初版発行。平成10年2月20日、第64刷発行)もあるが、 「英文の解釈あるいは英文和訳というのは、与えられた英文の意味を理解して、そして多くの 場合、その理解した意味を日本語で言いあらわすことである」「この種の文章は、全体が何を 言おうとしているのかをしっかりつかんで、よく意味の通ずる訳文になるよう心がけてほしい。
安易な逐語訳は感心しない」というわりに、本人自体の訳文は逐語訳になっている(朱牟田も history を取り違えている)。
<朱牟田の訳>
わたしの歴史観は、それ自身が一つの小さな歴史だといえる。その歴史も、主として他の人が 作ってくれた歴史で、私自身の作った歴史ではない。というのは、学者の一生の仕事は、自分 なりのバケツ一杯の水を、同類のバケツ一杯ずつを無数に集めた、大きなしかもますます大き くなる知識の川に、そそぎ加えることだからである。だから、私一個の歴史観を、かりにも人 を導く、いやそこまででなくとも人にわかりやすいものに、しようと思えば、その起源、発達、 社会的個人的背景等を明らかにして、お目にかけねばならない。
高名な歴史家の有名な啓蒙書の冒頭部分なのだ。訳者も全力を尽くして訳文を練り上げたに違いないが、それにしてはお粗末。語学教員は英語で考えるクセがついていて、日本語での思考がうまく働かないのだろうか。
V 翻訳教育の現場
以上見てきた例はいずれも世間で一流とみなされる人々の日本語訳文であり、たまたま目に付いたものを挙げたまでで、重箱の隅をつついて揚げ足取りをするものではない。英語に堪能なはずのそれぞれの分野の専門家がこれだけ過ちを犯すのも、英文を正しく読む訓練が欠けているからではないのか。
誤訳・悪訳をいくら指摘しても減ることはない。そのような人はもともと正しく読む力が欠けているのだ。まず根本的に英文を正しく読むことからはじめなければなるまい。正しく読めさえすれば、次は本人の文体の問題なのであり、そこからは好き嫌いで論じればよいことだと思う。精緻に読むことでしか英文を読めるようにはならない。そして精緻に読むことは努力さえすれば誰でもできることなのである。そのあとは、それぞれが自分の文体で語ればよいことだ。翻訳の醍醐味はそこにある。翻訳者はよい意味での反逆者でもあるわけなのだから。
そこで論者がこの10年来、翻訳者養成の私塾で試みている英文精読の方法をご披露する。主に四年制大学卒の社会人、延べ500人に対し、以下のような、
精読:一点の曇りなく読み解く
直訳:原文の構造を生かし解釈は控える
訳文添削:提出者のレベルに合わせ指導する
モデル訳:商品として通用する翻訳の一例を示す
の順による英文読解講義を行ってきた。少なくとも30人以上が翻訳書を出し、うち3人は15冊以上を出している事実から、多少の効果はあったかと自分では思っている。 この方法論は英文習得に意欲ある大学生にも通用するのではないかと考え、ささやかながら学生相手に実験を始めたところだ。
翻訳のプロセスを応用した英文講義イメージ
(以下、この「誤訳に学ぶ英文法」流の読み方を示している箇所なので、省略)
VI 結語
外国、とくにアジア諸国に出かけて英語が話せないと、本当に大学を出たのかと訝られるという話をよく聞く。だから日本の英語教育はだめなのだと、続くわけだが、これは短絡というもの。自国語で高等教育を受けられない国では、英語で授業を受けざるを得ず、必然的に英語がうまくなるという仕組みだ。自国の言葉で高等教育を受けることのできる日本人は幸せそのもの。明治初期にいち早く西洋式の教育を受けた夏目漱石は、植民地でもない日本の高等教育が外国語でなされることに疑問を感じていた。「日本のNationalityは誰が見ても大切である。英語の知識位と交換の出来る筈のものではない」と。だが明治40年になると、大学の授業は大方日本語で講ぜられるようになっていた。そんなに短期間に、自国語での高等教育が可能になったのは、ただただ日本語の咀嚼力の強さによる。 往古漢文訓読で思考力を養ったように、近代日本では、英文精読が語学力、論理力、表現力を養う源となった。日本の教養人の養成システムに英語学習がしっかり組み込まれていたのである。英語学習は近年になってますます盛んとなり、会話力や概要をつかむ力が伸びていることは確かだし、望ましいことではある。
だが心配なのは、教養主義の没落とともに文章を読む力が明らかに落ちてきていることだ。抽象概念が詰まった外国文を精確に読めてこそ、つまり翻訳できる力がついてこそ、外国語での情報を間違いなく把握でき、外国語での高度の会話もできる。紋切り型の日常会話など下手にやると誤解を増すばかりだ。
翻訳手法を用いての英語教育。興味持たれる教員諸氏がおられたら、相携えて、さらに有効な手法をともに考えてゆきたいと思う。
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