前回掲載の全文を出版社経由で著者に問い合わせたら、早速丁寧な返事をいただいた。怒ってか僻んで指摘を無視するのが通例のところ、さすが実力ある英文学者かつ空手6段の武道家!ご返答と併せ、私の疑問を再吟味してゆこう(第48回を参照下さい)。
①It is enough for any man that he has the divine power of making friends, and he must leave it to that power to determine ②③who his friends shall be.
① について:
筒井の説明(it は that 以下)に異存はないが、「it は状況、that 以下は修飾語(…という…点で)と読めないか」というのが、私の疑問であった。筒井も、また旧知の英語学者に訊いても無理という意見だったので、それで納得。
どうして上のように読めないだろうかと思ったのは、次のような文での(2)が頭にあったからだ。
例:I am sorry that I was late.
that 以下は(1)SVCに付加するM(修飾語)とも(2)sorry の目的語とも、とれそう。(1)=I am sorry because I was late. (that 以下は副詞節)
(2)=I am sorry for it that I was late.(that は it と同格の名詞節を導く接続詞)と読み解く。
①は形が it 〜 for—that だし、enough は sorry のような感情・心理を表す形容詞でないので私が願うようには残念ながら読めなさそうだ。
② (見かけと実際の二人称・三人称がごっちゃで混乱する)について:
私の指摘で了解いただけたようだ。
③について:
これは双方見解を異にする。筒井(shallは意志未来)「誰を友人とするかはその才能に任せねばならない」柴田(shall は単純未来)「誰が友人になるかはその力に委ねざるをえない」と訳してしまえば同じようにみえる。力点の問題といえるかもしれないが、私は単純未来ととりたい。賢明なる読者のご意見は如何だろう?
④(関係副詞とカンマの有無)について:
私の指摘で了解いただけたようだ。
⑤ (引用したモームの原文)について:
私の指摘で了解いただけたようだ。
⑥について:
I have wondered at the passion people have to meet the celebrated.
(1) 筒井の解釈:
I have wondered at {the passion (people have) (to meet the celebrated)}.
to meet は形容詞用法で passion に掛かる。
(2) 柴田の解釈:
I have wondered at [the passion {people have (to meet the celebrated)}].
to meet は副詞用法で have に掛かる。
これも両者意見の異なるところ。信頼できる英語学者に訊くと、どちらともいえない、とあいまいな返事だった。たまたま見つけた代々木ゼミナールの人気講師、西きょうじの本には(1)(2)ふたつの解釈が図示されていた 皆さんは、どうでしょう?
⑦について(assuming that の意味):
「assuming の分詞構文は、『同時的動作』の用法にとって、『〜と思って(思いながら) 』と訳そう。『常に〜と思いながら』とは、『〜と信用できるとして』くらいの意味。」だと筒井は言う。私の「assuming that は仮定・譲歩(…だとして)」との指摘を受け入れてくれない。
…長幼の序ということもあり、「江南春」(杜牧)
千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中
を掲げ、
高校のとき、「下線部は(1)懐旧の情か(2)感懐の念か」の設問に(2)と答えて×となったが、その後読んだ碩学の解説に「感懐は深く、懐古まで至っていないのがよい」旨あり、どちらが合っているのか当惑した経験を引き、「結局解釈の問題ということになるのでしょうか」と返信し、お茶を濁した。
でも、やっぱりまずい。恥をかかないよう筒井にはここ、訂正してほしいのだが…。
似た例文を挙げよう。
Assuming (though one cannot be sure) that the husband was guilty, what made his attitude doubly unreasonable was the fact that, with the exception of this one small irrepressible foible, Mrs Foster was and always had been a good and loving wife.
この夫に責があるとして(確かにそうだとは言い切れないが)、その態度を倍も不当なものにしたのは、この小さなしかし抗ない難い短所を別とすれば、フォスター夫人がいつも変わらず愛情に満ちた良き妻であった事実である。(ロアルド・ダール「天国への道」)
更に、最強の英語学習書と私が考える『誤訳の構造』(中原道喜・聖文新社)に全く同じ箇所が取り上げられている(以下)。
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[例1] ‘That’s the kind of rubbish errand boys read, always assuming they can read. Board-school boys. Not a lad at Blackfriars Grammer.’
「そんな本は、いつだって自分は字が読めるんだってふりをするつまらん使い走りの小僧たちが読むものさ。寄宿学校の生徒たちや、ブラックフライアーズ・グラマー・スクールの生徒が読むもんじゃない」
[例2] The more original that discovery is, the more credit we shall give the artist, always assuming that he has technical skill sufficient to make his communication clear and effective.
画家の構想の展開が独創的であればあるほど、われわれはその画家に信頼を寄せるものなのだ。それは、その画家が伝えようとすることをはっきりと効果的にするだけの技術的熟練をその画家が持っている、とわれわれが常に思うからである。
□解説(上記の不適切訳に対する)
たしかに、辞典で assume の項を見れば「考える;ふりをする」などの訳語が与えられているが、正確な意味がわからないまま適当に訳語をあてはめて処理されがちな単語の一つである。assume は基本的には「前提的に(頭っから)…だと考える;当然…だと思う;…だと仮定する;…を前提とする」などの意味を表しassume は慣用的な独立分詞構文として「…と仮定して;…であるとして」(=providing)という「(前提)条件」を表すことがあり、上の二例はともにこの用法である。
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